初心者のための宝塚観劇講座

宝塚歌劇団が好きで好きで仕方ない雨宮(あまみや)が、 趣味でお送りしているブログです。 チケットの取り方から、楽しみ方、観劇マナー、 マニアックな楽しみ方まで、ご紹介します。

タグ:歴史


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昨夜放送、小林一三先生のドラマ第2回。

小林一三 | NHK 放送90年ドラマ 経世済民の男
 

いよいよ星南のぞみちゃんが登場…ということでテレビの前で正座して待機していました。が!  星南のぞみちゃんが出ると知らなければ見逃してしまうほど、ほんのちょっぴりの出番でした。しょんぼり。そもそも宝塚歌劇に関するエピソードがほんのちょっぴりでしたね。みなさんお分りになったでしょうか。小林一三先生がご自宅に戻った時、奥さんと一緒に出迎えた女性(子供連れ)、あれが星南のぞみちゃんでした。そのあと、家の中のシーンでも画面右奥のソファに座って「お父様」って言ってましたが、あまりにちょっぴr(しつこい)。

そんなドラマにも登場した小林一三先生のご自宅「雅俗山荘」の敷地には現在、小林一三記念館があります。

各館のご紹介小林一三記念館 | 阪急文化財団について| 阪急文化財団 



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小林一三先生の歩み、宝塚歌劇の歴史を知ることができます。
 
また、ドラマの中に出てきた邸宅の中にも入れます。

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バスルームがピンク色で可愛かった。

邸宅の一部はレストランとして営業しています。
邸宅レストラン・雅俗山荘 - GAZOKU SANSOU - 

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お庭を眺めながらお食事できます。

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レストランに飾ってある絵画は本物。クリストフルのフラワーベース。もちろんお食事もおいしいですよ。ゆっくりと、気持ちのいい時間を過ごすことができました。


 



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『星逢一夜』を書く上で参考にした人物のひとりに、金森頼錦(かなもり・よりかね)という江戸時代の大名がいると、公演パンフレットで演出家の上田久美子先生が語っています。

劇中では、金森頼錦の納める郡上で一揆が起き、それに対して幕府が厳しい処分を下した様子が描かれています。また、主人公・天野晴興は、自らの領地・三日月藩での一揆を前に「私は無能な金森とは違う」と言い捨てます。

金森頼錦とは、どんな人物なのでしょうか。

1713年、正徳3年生まれ、1763年、宝暦13年没。1736年、元文元年に23歳で郡上藩二代藩主となります。天文学に興味を持ち、お城に展望台を設けて天体観測も行っていたんだとか。

農民や町人の意見も取り入れた政治を行うもののうまくいかず、財政もなかなか厳しかったようです。参覲交代の費用もかかる上に、江戸の屋敷は二度の火事にあう、さらに奏者番となり将軍近くに仕えるようになると交際費や衣装代など出費がかさむようになりました。そんなことから、年貢高を固定する定免取りから、毎年代官が農地に赴いて収穫高を調べ年貢高を決める検見取りに変えました。検見取りは収穫が終わっても代官の調べが終わるまで次の作物を植えられないことや、サンプルに調べる田の実りが良いと全体の年貢高が上がってしまう、また農民がこっそり開墾した農地も調べあげて課税対象になるなど、農民の不満がたまる要素が大きかったようです。

しかも、郡上藩はあまり豊かではなかったようです。とうとう農民たちの不満は一揆という形で爆発。およそ4年にも及ぶ抗争ののち、頼錦は改易(身分剥奪、領地没収となること)となり、陸奥盛岡藩に身柄を預けられ、そのまま盛岡で51歳で亡くなっています。

『星逢一夜』の劇中では、年貢の取り方を検見取法から定免法に変えたことで三日月藩が荒れたとされています。実際、享保の改革ではこのように決められたのだとか。検見取法は代官の労力が必要なため、節約のために固定高の定免法になったようです。

たしかに、晴興と頼錦の人生は似ています。江戸での晴興の暮らしはあまり描かれていませんが、どんな様子だったのでしょう。秋定だけが唯一の友だそうですが、ふたりで星の話をしているときが束の間の休息だったのかもしれません。

吉宗が晴興に、最近本物の星を見ているか尋ねる場面があります。忙しくて見ていない(暇がありませぬゆえ、ってやつですな)…このやりとりに、遠く故郷を想う時間も少なくなっているのだと切なくなります。


 




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