ご無沙汰しております。お元気ですか。私は元気です。
花組大劇場公演『はいからさんが通る』の初日から観劇を再開していたものの、なんとなく「遠征してまーす!」と言うことに後ろめたさを感じ、しばらくブログの更新もしていませんでした。(ツイッターだけちょこちょこと)
東京公演もよく通いました。
宝塚はなくならない、って思った
今はただ、無事に全ての公演が終わったことにホッとしてます。 まだ他の舞台では「公演関係者が発熱のため公演中止」ってニュースをちらほら聞くので、あれだけたくさんの人が出てたくさんの人が働いている宝塚で、感染とは関係ないとしてもひとりも体調悪くならずに長期公演を無事に終わることができたというのは、本当にみなさんの努力の賜物だと思うし、努力だけではどうにもならない部分もあるのでラッキーだったとも思う。とにかく本当によかった。そんな気持ちを抱えての公演だったので、毎回終盤に高屋敷先生(永久輝せあさん)が「言論の炎を消しちゃけいない」って言う時に、それが自然と脳内で「コロナ渦にあってもエンタメの炎を消しちゃいけない」って気持ちに 変換されて、今だからこそ感じる重みみたいなものもあったし。
はるか昔からどんなにひどいことが起こっても、人類が生きていく上で演劇や音楽やその他もろもろの芸術がなくなってはいないのだから、きっとこの先も大丈夫、宝塚はなくならない、って気持ちもあったし。
東日本大震災以来の、いろんな思いが渦巻いた(まだ渦巻いている最中だけど)公演でした。
改めて、自分にとって劇場に行ってあの空間に3時間浸っていられることの大切さを実感したし、これが私にとっての「特別な日常」なんだってこともひしひしと感じました。
前置きが長くなったけれども。
関東大震災前後という時代
『はいからさんが通る』は大正時代、関東大震災の前後が舞台の物語。私の曽祖母、祖母は震災経験者。昔、祖母から震災当日の話を聞いたことがありました。
祖母はそれこそ紅緒さんのような人で、地震のあった時はまだまだ子供で、ちょうど木に登っていました。「今日はなんだか木がよく揺れるなぁ」と思っていたら、下で大人たちが大騒ぎをしている。それで何かあったと気づいたそうです。
祖母の一家は青山墓地に避難。 そこから、下町が真っ赤に燃える様子が見えました。
神田のあたりの学校に通っていた祖母の兄は、電車のホームで被災。ホームからは学校の校舎が見え、地震のあと生徒がわーっと飛び出してきました。揺れがおさまるとみんな再び建物内へ。その後余震が訪れ、建物は倒壊しました。祖母の兄は、青山まで歩いて帰ってきました。
祖母も小さかったので、あまり記憶にはないようで、話してくれたのはこれだけ。
曽祖母は、震災以来亡くなるまで毎晩、翌日着る物を風呂敷に包み、枕元に置いて寝ていました。
これだけでも大変な時代だったと言えるのに、それに輪をかけて戦争も。劇中に出てくる武器の多さ(←友人が種類を数えていて驚いた)からも、今よりうんと「死」が身近にあったと想像します。
そんな時代に、自分の思いに正直に懸命に生きる登場人物たちの姿は、 すさまじいエネルギーがあった。
ぶっちゃけ、この時代ならではの価値観は今とは違うのでちょこちょこ違和感を感じることはあったし、紅緒さんみたいな無鉄砲女子がリアルに近くにいて振り回されるのはいやだなぁと思うんだけど(笑)。
この作品が教えてくれたのは、後悔しない生き方、みたいなものだったのではないかと思う。悩み、苦しみ、もがき、でも希望を持って明るく進む、自分で運命を切り開く、そんな強さが、コロナで弱っていた私の心には響いた。
それから、出てくる人出てくる人の未来が、みんな明るく予感できる感じがとても好きだった。
(えー、ここから先は若干私の腐ったBL脳が働きます。ご注意ください)
蘭丸はきっと牛五郎といい感じになるし。編集長は、お金ないのに編集部に美男子どんどん入社させて呆れられる(でも本人は楽しそう)かもしれないし。鬼島さんは満州で「んだよ、うるせーな」って言いながら環さんと仲良く生活してるだろうし(そんなに儲かってなくて「お前は華族のぼっちゃんと結婚してりゃよかったんだよ」「でもわたし、鬼島さんが好き!」「……ったく言ってろ!」とかやってそうだし)。相変わらず吉次さんの周りにはすみれ組の3人がウロウロして、ちょくちょく叱られてるだろうし。高屋敷先生は『はいからさんが通る』がヒットして、新作にとりかかるも、あいかわずの遅筆で編集部員がプンスカしてそうだし。