さて、花組の次回公演の配役が出ましたので、それぞれどんな人物なのか分類していこうと思います。自分用のメモなんで、見づらいところはご容赦ください💦

公演解説 | 花組公演 『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』『Fashionable Empire』 | 宝塚歌劇公式ホームページ
運命の恋人マリー・ダグー伯爵夫人とのロマンスを中心に、最大の好敵手でもあるショパンとの友情を交えて描く。
ということなので…

フランツ・リスト - Wikipedia
マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。 3児を儲けたものの、1844年にはマリーと別れた[3]。
1835年〜1844年ごろがメインとなってくるようです。

【リスト家】
アダム・リスト (航琉 ひびき)リストの父
リスト・アーダーム - Wikipedia
フランツ・リストの父
マリア・アンナ・リスト (春妃 うらら)リストの母
アンナ・リスト - Wikipedia
作曲家フランツ・リストの母。
少年リスト (美空 真瑠)

【音楽家】
フランツ・リスト (柚香 光)
フランツ・リスト - Wikipedia
ハンガリー王国出身で[2]、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。
ルイジ・ケルビーニ (舞月 なぎさ)リストの知人
フランツ・リスト - Wikipedia
ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年にはオペラ『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
ルイジ・ケルビーニ - Wikipedia
同時代の人々には高く評価され、ベートーヴェンはケルビーニを、当時の最もすぐれたオペラ作曲家と見なした。またケルビーニが執筆した『対位法とフーガ講座』は、ショパンやシューマン夫妻も用いた[1]ほどであった。
フレデリック・ショパン (水美 舞斗)リストの友人
フレデリック・ショパン - Wikipedia
1836年 - 26歳:マリアに求婚。ジョルジュ・サンドと出会う。 
1837年 - 27歳:マリアとの婚約が破棄される。 
1838年 - 28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。 
1839年 - 29歳:冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。 
1844年 - 34歳:冬、インフルエンザにかかる。 
1847年 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。
【ヤマハ】「リスト LISZT, Franz(Ferenc)」 楽譜 - 通販サイト - ヤマハミュージックメディア
パリの社交界でショパンにジョルジュ・サンドを紹介したのはリストであった。

ジョルジュ・サンド (永久輝 せあ)ショパンの恋人


ジギスムンド・タールベルク (帆純 まひろ)リストのライバル
ジギスモント・タールベルク - Wikipedia
ロマン派のピアニスト・作曲家。同時代者のフレデリック・ショパン、フランツ・リストなどと並んで、19世紀において最も傑出したピアノの名手の一人だった。
ジギスモント・タールベルク - Wikipedia
1837年になると、リストは雑誌記事でタールベルクの作品をけなしている。タールベルクがパリに戻ると、2人の間にライバル意識(リストがわずか2ヶ月ほど年長)が燃え上がった。同年2月にタールベルクは初めてリストの演奏を聞いて呆然となった。同年5月、彼はロンドンで演奏会を開いた。このころ作曲した 《ロッシーニの「エジプトのモーゼ」による幻想曲 Op.33》 は1839年に出版され、19世紀を通して演奏会でしばしば取り上げられる有名作品となっている。後にシューマンの妻となるクララ・ヴィークもこの作品を研究したという。ロンドン滞在を終えてイギリス各地でツアー・コンサートを開いたが病気になり、すぐにウィーンに戻った。
1838年春、彼がパリでコンサートを開いた時、音楽雑誌は「もっとも有名な作曲家」として取り上げた。同年4月、ウィーンで彼はコンサートを終えたばかりのリストを食事に招き、モーリッツ・フォン・ディートリヒシュタイン伯(フランツ・ヨーゼフの弟か)とともに会食した。伯爵は「カストルとポルックスの2人と一緒だ」と喜んだ。翌日、2人はメッテルニヒの客人として再び同席している。リストのウィーン滞在中、タールベルクは全く演奏しなかったという。
ジョアキーノ・ロッシーニ (一之瀬 航季)同時代に生きた作曲家
ジョアキーノ・ロッシーニ - Wikipedia
イタリアの作曲家。多数のオペラを作曲し、『セビリアの理髪師』、『チェネレントラ』などは現在もオペラの定番である。
エクトル・ベルリオーズ 希波 らいと
エクトル・ベルリオーズ - Wikipedia
『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家

【小説家・詩人・画家・ジャーナリスト・政治家】
ヴィクトル・ユゴー(高翔 みず希)同時代を生きた小説家、政治家
ヴィクトル・ユーゴー - Wikipedia
フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。

シャルル=オーギュスタン・サント=ヴーヴ( 和海 しょう)同時代を生きた小説家
シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ - Wikipedia
19世紀フランスの文芸評論家・小説家・詩人。ロマン主義を代表する作家の一人で、近代批評の父とも言われる。
ロマン主義文学史上、小説のユゴー、バルザックと並び称され、批評というジャンルを確立したと言われる。

オノレ・ド・バルザック (芹尚 英)同時代を生きた小説家・ヴィクトル・ユゴ-の友人
オノレ・ド・バルザック - Wikipedia
19世紀のフランスを代表する小説家。
オノレ・ド・バルザック - Wikipedia
当時文壇を席巻していたロマン主義文学の担い手であったヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ・ペールとは親友の間柄であり、友人達によるロマン主義の影響下で彼の作風は醸成されたとも言える。
ウジェーヌ・ドラクロワ (侑輝 大弥)ショパンのお友達。(だいやくん、やったね👍)
ウジェーヌ・ドラクロワ - Wikipedia
19世紀フランスのロマン主義を代表する画家、アーティスト。
ウジェーヌ・ドラクロワ - Wikipedia
ドラクロワの個人的な日記は、この画家の文業における代表作である。そこには絵画、詩、音楽についての考察が書き留められており、また、ジョルジュ・サンド、ジョゼフィーヌ・ド・フォルジュ男爵夫人、ショパン、シャブリエらとの議論が記録されている。
ラマルティーヌ (峰果 とわ)
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ - Wikipedia
フランスの詩人、著作家、政治家。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えている。また2月革命前後に政治家としても活躍した。
エミール・ド・ジラルダン( 聖乃 あすか)
エミール・ド・ジラルダン
フランスのジャーナリスト、出版社、政治家
鹿島茂の「近代文学を創り上げた編集力」 アカデミーヒルズ
同時代には、自己表現として文学を選ばなかった人間もたくさんいます。その1人に、エミール・ド・ジラルダン(1806~1881)がいます。この人はジャン=ジャック・ルソーを保護したことで知られるジラルダン公爵の非嫡出子です。ゼロからの出発で最初に自分の自伝を書き、それなりに評判になりました。しかしジラルダンは自分の才能を見限るのが非常に早く、「才能のあるやつに書かせて、俺はその編集者に回ろう」と考えました
アルマン・マラスト (泉 まいら)
アルマン・マラスト-ウィキペディア
フランスの政治家であり、 パリ市長.
フェルディナン・フロコン (翼 杏寿)
フェルディナン・フロコン (Ferdinand Flocon) 2021 - jpedia.wiki
フランスのジャーナリスト兼政治家であり、1848年のフランス第二共和政の開始時に暫定政府の創設メンバーの1人 

【貴族、リストの恋人とその家族】
ダグー伯爵 飛龍 つかさ
マリー・ダグー伯爵夫人 星風 まどか
フランツ・リスト - Wikipedia
多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。


ル・ヴァイエ侯爵夫人 (美風 舞良)
リストはル・ヴァイエ侯爵夫人の姪にピアノを教えていた。夫人は知人を招いてリストの演奏を聞かせていたそうで、そこでリストとマリーが出会ったとされる。

エステルハージィ伯爵 (紅羽 真希)
エステルハージィ伯爵夫人 (華雅 りりか)
エステルハージ - Wikipedia
中世から続くハンガリー[1][2]の貴族である。いくつもの分家がある。 17世紀からハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー帝国末まで、ハンガリー王国最大の大地主であり、事業家であった[3]。
この中の誰かかなー。

レオ・フェステティクス伯爵 (羽立 光来)
ハンガリー狂詩曲 第13番 S.244 イ短調/Ungarische rhapsodie No.13 a-moll - リスト - ピティナ・ピアノ曲事典
レオ・フェステティックス伯爵に献呈。
リストが「ハンガリー狂詩曲 第13番 S.244 イ短調」を献呈したもよう。

ポンポンヌ男爵 (高峰 潤)コルデー伯 (春矢 祐璃)
ドルバック子爵 (和 礼彩)
ノワイユ侯爵 (龍季 澪)
ラプリュナレド伯爵夫人 (音 くり寿)

【妻たち】
オランプ・ぺリシエ (都姫 ここ)はなこちゃんの妻
Olympe Pélissier - Wikipedia
Olympe Pélissier (9 May 1799[1] – 22 March 1878) was a French artists' model, courtesan[2] and the second wife of the Italian composer Gioachino Rossini. She sat for Vernet for his painting of Judith and Holofernes. Honoré de Balzac described her as "the most beautiful courtesan in Paris".[3]
ジョアキノロッシーニ(一之瀬 航季)の2人目の妻、バルザック(芹尚 英)の愛人で高級娼婦。

デルフィーヌ・ゲー (星空 美咲)ほのかちゃんの妻
ジャーナリズムとコマーシャルの永久的な共生関係を発明した男 エミール・ド・ジラルダン - るいネット
1831年ロマン派のミューズと 謳われたデルフィーヌ・ゲーと結婚。
「夜と昼、孤独と社会、真理と虚偽。というのがあのパリ女の方程式だ」 : 河野與一と河野与一
フランスの女流詩人。ソフィー・ガイSophie Gay, 1776-1852という文筆家の娘で、その美貌でも有名でロマン派のミューズと謳われ、エミール・ド・ジラルダンÉmile de Girardinと結婚しました。
【女子たち】
ド・キュスティーヌ嬢 (咲乃 深音)
アストルフ・ド・キュスティーヌ - Wikipedia
1820年代初頭、キュスティーヌは母親の薦めで結婚した。キュスティーヌは後に自身が同性愛者であることを認めるが、妻と二人の間にできた子供は心から愛していた。しかし、その妻が結婚して2、3年も経たずに亡くなってしまった。
彼の娘かしらん?

クーベルタン夫人 (若草 萌香)
ド・ロルジュ夫人 (糸月 雪羽)
カロンヌ嬢 (凛乃 しづか)
アデル・リュサンド嬢( 美羽 愛)

【大佐】
デュカス大佐 (愛乃 一真)

くり寿ちゃんの役どころなんなんだろう。

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