どうでもいい話ですが、私の中で飛龍つかさくんは菅田将暉タイプのイケメンなのです。なんか、似てない?
菅田将暉2018年カレンダー情報♪
— トップコート【公式】 (@topcoat_staff) 2018年2月6日
2018年のカレンダーテーマは、“ON”と“OFF”!
“OFF”は、キメっキメではない、菅田のOFF感満載を楽しんでいただけるバージョンです。 pic.twitter.com/oJiLUzV8Sr
つかさくんは、舞台でのちょっとした立ち振る舞いとかに誠実さみたいなものが感じられて、すごく緻密に役を作っていく人なんだろうなぁと思って見ています。
で。
すごく今さらですが。花組東京新人公演『ポーの一族』の感想の続き。
私、おそらく、つかさくんのお芝居がすごく好きなんだと思う。
大劇場の新人公演も、つかさくんのアランはとっても好きだったけど、東京ではまたさらに進化してました。
なんというかこう、敬虔なクリスチャンだった。原作のアランのイメージに近い。
私はクリスチャンではないので、本当のところはわからないけれど。私の薄ーい知識で見る限りでは、つかさくんのアランは神様を心の拠り所にして生きている感じがした。本当はすごくいい子で(←これが本役さんと一番違いを感じたところかな。本役さんがいい子じゃないという意味ではないよ)。
だからこそ母親に認められたくて。どんなに辛くても、母親を裏切ることも見捨てることもできなくて。どちらも叶わないことが苦しくて。
そういう心の葛藤が反動となって、ああいう学校での態度になってしまったりするんだと思う。
いい子でありたい自分と、それが叶えられない自分、外から見られる自分と、本当に自分が求めているもののギャップ、いろんなものに苛まれて精神的にもギリギリで、今にも自分の意識を手放してしまいそうな、危うい10代の男の子だった。
アランが特に宗教と絡んでいる部分は、銀橋のソロ曲と、セントウィンザーの展望台でエドガーに襲われて聖書の言葉を言う(歌う)ところ。
血を吸ったエドガーに言っているのは、旧約聖書の詩篇19。文語体。
「もろもろの天は神の栄光をあらはし 穹蒼はその御手のを示しめす この日ことばをかの日につたへ、このよ知識をかの夜におくる 語らずいはず、その聲きこえざるに」「ねがはくは我をかくれたる愆(とが)より解放ちたまへ」
という部分です。
最後の「ねがはくは〜」の部分、新共同訳聖書によると「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください」となっている。
アランはソロ曲でも「生まれる前に何か罪を犯したのだろうか」と言う。こういう考えって、日本ではあまり聞かないかもしれないけど(いや聞くかな? 私はあんまり聞かないのだけど)、海外のおじいちゃんおばあちゃんなんかは今だに言うらしい。何か不幸なことが起こると、前世で悪いことをしたからだ、って。
アランも今現在自分が置かれている辛い状況は、自分の預かり知れぬところで起こした罪によるものだと思っているのかもしれない。でもこの状況を人のせいにはしない。神に祈り、それでも自分には受け止め切れないほどの苦境。
自殺という考えはない(しちゃいけない)かもしれないけれど、どうにかしてここから逃げたい。そんな時に現れたエドガー。アランは銀橋芝居でエドガーがもしかしたらバンパネラではないかと疑い、展望台でバンパネラであることを悟る。
もしエドガーが無理やりにでもバンパネラの仲間に入れてくれたら…この苦境から逃れられるかもしれない。
でも、そんなことを考えること自体が罪なのだ。
そんな揺れ動くアランの心のうちが、手に取るようにわかった。
「なぜ僕を選んだんだ」
このセリフが驚くほどストンとはまって、涙がでた。
光ちゃんのアランは、超自然的に大きな運命に翻弄され、エドガーに出会うべくして出会ったように感じがするのだけど。
つかさくんのアランは、一つ一つの出来事に真正面から真面目に向かっていってしまうあまり自分で自分を追い込んでいってしまって、その先にいたエドガーを見て意識を手放したように見えた。
実際にアランがエドガーについていくクライマックスに関しては、ほのかちゃんのエドガーが秀逸だったので改めて書きます。
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