『ドン・ジュアン』めちゃハマってます。

自分でも感想が収拾つかないので、観劇後に雑なメモをとっているんですが、それでも自分で自分の感想を回収しきれないでいます(笑)。

*ずっと、ドン・ジュアンの今を形成しているのは母親の何かによると思っていたのだけど、もしかしたら父親の望む「家名」「男として」「正しい生き方」という呪縛から逃れようとして、ああなってしまったのではないかと思うようになりました。むしろ、母親はその父から唯一救ってくれる存在だったのではないかと。子ジュアンが何かから自分を守るように腕をかざす場面があるのだけど、最近あれが厳格な父親(の体罰かなにか)への恐怖なのではないかと思えるんです。大人になってから父に触れられることを拒むのも、娘の父である騎士団長を恐れるのも、潜在的な父親への恐怖があるのかも。(未解決)

*ドン・ジュアンが父親のこと「エゴイストめ!」って言うのもよくわかる。父親は、ドン・ジュアンが家名を継ぎ、正しい生き方をしてくれることが、何より本人にとって幸せであると信じて疑わないでいる。でもそれが、ドン・ジュアンにとっては苦痛。父の願いとは正反対のこと(女遊びや酒に溺れる)をすることで、この呪縛から逃れようとしているのかも。それは、他人から見れば好き勝手自由にやっているように見える。でも実は、父親の呪縛の中で争っているだけ。これが「自由という牢獄」なのかも。(未解決)

*ドン・ジュアンが、マリアに名前を聞いた時。「マリア」という名前に異様に反応していました。普通に名前を聞いただけではこんなに驚かない。「マリア」という名前に意味が隠されているのではないかと思いました。聖母マリア、母を連想させる名前。ドン・ジュアンはこの名前を聞いて、自分を解放してくれる、救ってくれる女性だと、何か運命を感じたのかも。

*そこで名前について調べてみた。
ジュアン:神は癒し給う
ラファエル:神は癒される
イザベラ:神に捧げる
カルロ: 男らしい、自由な
エルヴィラ:賢い助言者
意味がありそうでなさそうな。もっともキリスト教的な考えに縛られているカルロが「自由な」という意味を持つ名前だというのがおもしろいです。

*「Aimer」の最後に「愛してる」と言ってから、自分の言葉に驚いたように差し出した手を見つめたドン・ジュアン。何よりも先に自分の感情が出る。自分でも気づかないような素直な感情が。感情のままに動いて自分でも驚く。マリアに会いたいのも理由なんてなくて、ただ会いたいと思ったから。なぜ会いたいのかわからない。でも会わなくては気が済まない。それが何だかわからない。 もしかしたら彼は「愛を知らない」のではなく、彼の感じたものが愛だと知らなかっただけなのかも。愛に触れて暖かさを感じていたのに、それが愛だと知らなかった。それだけなのかもしれない。

今日たどり着いたのは、こんな愛でした。

千秋楽を迎えたら、いよいよエルヴィラについて書きたいです。私、エルヴィラを許せないの。

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