初心者のための宝塚観劇講座

宝塚歌劇団が好きで好きで仕方ない雨宮(あまみや)が、 趣味でお送りしているブログです。 チケットの取り方から、楽しみ方、観劇マナー、 マニアックな楽しみ方まで、ご紹介します。


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昨日、雪組公演『ドン・ジュアン』が千秋楽を迎えました。

最後までいろんな感情や考え方や愛の形がぞろぞろぞろぞろ湧いてきて、観劇していてとても心が苦しい(舞台からいろんなものを受け取るという意味では、幸せな苦しみですけどな)作品でした。 

自分の人生は自分でしか生きられない

DC版を見て最終的に雨宮さんがいきついたのは、人はひとりでは生きられないけど、自分の人生は自分でしか生きられないということ。人として生きていくのにはいろんな形の愛が絡み合っているということ。自らも愛を与えて初めて、絡み合う中に入れるのではないかということ。

文字にするとまあ、驚くほどに当たり前のことなんだけど。

「君の住んでる世界へ きたぞ!」の破壊力

KAATの初日からDC千秋楽まで変わらない破壊力を持っていたのは、ドン・ジュアンの「君の住んでる世界へ きたぞ!」というひとことでした。

マリアと出会ったドン・ジュアンが「(あなたとは)住んでる世界が違う」と言われてショックを受ける。少なくても、ほんの少し前には彼女を見て何かを「見つけた」と感じたはずだから。「住んでる世界が違う」って最大の拒否のような気がする。ショックを受けたドン・ジュアンを見て、マリアは言い訳をするように「今日はあなたと私の世界が交わった」という。でもさらにドン・ジュアンを拒否するかのように「何かの間違い」「神様のいたずら」と続ける。迷っている。

騎士団長の彫像完成除幕式に現れ、彫像を作った女に会いに来ただけだ、と言うドン・ジュアン。二人を会わせないよう制止する騎士たちを振り切って「君の住んでる世界へ きたぞ!」と叫ぶ。

これが、ドン・ジュアンにとって、生き方を変える大きな一言だったのではないかと思います。

住んでる世界が違うってどういうことなんだろうって、いつも考えてました。よく聞くじゃないですか、この言葉。自分と、自分を取り巻く世界。たしかに「自分の生きている世界はこのくらい」って枠がなんとなくある。明らかに違う世界だなと思う人もいる。何かのきっかけで触れなければ、一生知らない世界だってこともたくさんある。

ただ、人と出会ってその世界に触れ、交わってみても、二人の住む世界は完全には交わらない。 それどころか、相手が誰であれ完全に交わることなんて絶対にないわけです。

それが、ドン・ジュアンは彼女と交わった世界が全てだと思ってしまった。
こんな感じ。
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交わっている部分はあくまでも交わっているだけで、自分と同化しているわけではない。

でもドン・ジュアンはここも二人が溶け合ってしまったような感覚を持っていたのではないかと思います(もしかしたらマリアも)。それが、いつか二人で誰も知らない遠い場所へ行き、理想の家で二人きりで暮らし、そして二人で死ぬ。愛を知って生まれ変わると言う。こんな未来を思い描く二人が、見ていてとても苦しかった。彼らは愛を見つけて幸せなはずなのに、私はとても苦しかった。生まれ変わることなんてできないのだから。

二人が交わっている部分、二人しかいない世界。それだけが現実ではない。現実には、二人だけの世界では生きていけない。 自分の知っている相手の世界の、そのうしろにも大きな世界があることを知っていなくては、二人で生きていけない。

自分と相手が交わっていない部分、自分の知らない相手の世界に入った時の違和感。ドン・ジュアンにとっては、マリアの過去、ラファエルの存在。ドン・ジュアンはここに触れて壊れたのではないかと。

マリアに出会ったことも、そのまま考えれば自分の太陽を見つけたように感じるのではないかと思ってましたが、「嫉妬」の中で彼自身は「俺以外の太陽があったなんて」「ただひとつの太陽でいたいんだ」と言う。彼女にとってただひとりの愛する男でいたい、彼女ことを本当に愛しているのは自分だけ、そう訴えるわけです。

徐々に、二人だけの世界なんて存在しないことを実感していく。

ドン・ジュアンはラファエルとの決闘する前に、どんなに愛していても、二人の世界が溶け合って一緒に死ぬことはできないと、わかったのではないかと思います。

そこで、冒頭に書いた「人はひとりでは生きられないけど、自分の人生は自分でしか生きられないということ」に戻るわけです。

ドン・ジュアンは愛を知って、自分はひとりではないことも知った。そしてそれと同じように、ひとりであることも知ってしまった。愛を知る前の自分が、ずっとひとりだと思っていたことも思い出してしまった(昔のように爪を噛むクセがまた出てきたことでそうだと理解)。それが、彼の絶望へとつながったのではないかと。

人として生きるために死ぬ。あの頃の自分には戻りたくない。マリアとずっと一緒にいるためには、彼女の心に存在していくしかない。

ドン・ジュアンはものすごく寂しがりで、怖がりな男だったのではないかと思います。

総括しようと思ったけど、まだまだ感想続きます(笑)。

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『ドン・ジュアン』めちゃハマってます。

自分でも感想が収拾つかないので、観劇後に雑なメモをとっているんですが、それでも自分で自分の感想を回収しきれないでいます(笑)。

*ずっと、ドン・ジュアンの今を形成しているのは母親の何かによると思っていたのだけど、もしかしたら父親の望む「家名」「男として」「正しい生き方」という呪縛から逃れようとして、ああなってしまったのではないかと思うようになりました。むしろ、母親はその父から唯一救ってくれる存在だったのではないかと。子ジュアンが何かから自分を守るように腕をかざす場面があるのだけど、最近あれが厳格な父親(の体罰かなにか)への恐怖なのではないかと思えるんです。大人になってから父に触れられることを拒むのも、娘の父である騎士団長を恐れるのも、潜在的な父親への恐怖があるのかも。(未解決)

*ドン・ジュアンが父親のこと「エゴイストめ!」って言うのもよくわかる。父親は、ドン・ジュアンが家名を継ぎ、正しい生き方をしてくれることが、何より本人にとって幸せであると信じて疑わないでいる。でもそれが、ドン・ジュアンにとっては苦痛。父の願いとは正反対のこと(女遊びや酒に溺れる)をすることで、この呪縛から逃れようとしているのかも。それは、他人から見れば好き勝手自由にやっているように見える。でも実は、父親の呪縛の中で争っているだけ。これが「自由という牢獄」なのかも。(未解決)

*ドン・ジュアンが、マリアに名前を聞いた時。「マリア」という名前に異様に反応していました。普通に名前を聞いただけではこんなに驚かない。「マリア」という名前に意味が隠されているのではないかと思いました。聖母マリア、母を連想させる名前。ドン・ジュアンはこの名前を聞いて、自分を解放してくれる、救ってくれる女性だと、何か運命を感じたのかも。

*そこで名前について調べてみた。
ジュアン:神は癒し給う
ラファエル:神は癒される
イザベラ:神に捧げる
カルロ: 男らしい、自由な
エルヴィラ:賢い助言者
意味がありそうでなさそうな。もっともキリスト教的な考えに縛られているカルロが「自由な」という意味を持つ名前だというのがおもしろいです。

*「Aimer」の最後に「愛してる」と言ってから、自分の言葉に驚いたように差し出した手を見つめたドン・ジュアン。何よりも先に自分の感情が出る。自分でも気づかないような素直な感情が。感情のままに動いて自分でも驚く。マリアに会いたいのも理由なんてなくて、ただ会いたいと思ったから。なぜ会いたいのかわからない。でも会わなくては気が済まない。それが何だかわからない。 もしかしたら彼は「愛を知らない」のではなく、彼の感じたものが愛だと知らなかっただけなのかも。愛に触れて暖かさを感じていたのに、それが愛だと知らなかった。それだけなのかもしれない。

今日たどり着いたのは、こんな愛でした。

千秋楽を迎えたら、いよいよエルヴィラについて書きたいです。私、エルヴィラを許せないの。

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